修験道

2016/10/10

 修験道は「実修実験」の道です。自身で行を修め、その力を世に験(あら)わすことです。その修験の道に生きるのが「修験者」。修験者は別名「山伏」とも呼ばれます。山伏とは、文字通り「山に伏すも者」。

 神の宿る山に籠もって厳しい仏道修行に耐え、心身の鍛錬に励む者です。厳しい修行を通して、一瞬一瞬を生きることを学び、悟りを目指して己を高めていく行者です。その厳しい山岳修行の過程で験力が身についていくのです。

 『山伏はたった独りで深山幽谷へ分け入り、大自然と対峙する。そして、ひとりひとりがそれぞれのやり方で修行から何かを体得していく』と当山の院主・細川了海大阿闍梨は、著書『山伏があなたの人生に喝!!』の中で述べられています。そして、『厳しい山岳修行を通じて得た経験や知恵をどう受け止め、それを糧をして、社会の中でどう生きていくか。』 と。これこそが「実修実験」の道でありましょう。

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修験道とは
修験道
実修実験の道

 修験道は人間の本能を全面的に肯定した上で、修行によって生きる力を磨こうとする道です。ですから、妻帯も肉食も禁じられてはいません。「半僧半俗」の存在なのです。

 

 修験者は原則として寺を持つこともなく、出家(寺で生活すること)することもありません。他に職業を持ちながら、山々で修行を続け、修行によって得たことを己のために、また社会のために役立てていくのです。

 そういった意味では、現代社会にマッチした修養道の一つということが出来ます。

修験道
修験一乗宗

 当山は大阿闍梨・細川了海大僧正が設立した単立宗派「修験一乗宗」です。

 修験道は上述のように自分自身で悟りへ近づかんと行ずるものですが、当山では「一乗(一つの舟)」に皆で乗って仏の道へ漕ぎ出そう」と説きます。自身のみが法悦に浸るのではなく、己が得た仏果を広く世の中のために役立てようということです。

 山で捨て身の覚悟で修行をし、その成果を各人の仕事や家庭で役立ててこその修験の道といえましょう。

修験一乗宗
行者会

平成28年4月23日には50人を超える修験者や信徒が集まり、院主指導の下、「行者会」が執り行なわれました。

参加者は山伏の本装束に着替え、日頃の修行の成果を確認し、また新たに活力を得るために当院内の御山での山行に臨みました。「懺悔、懺悔、六根清浄」というかけ声と共に急勾配の斜面をロープを伝って登ったり、川の水の少ない部分を渡ったりしながら、頂きの笛塚の碑を目指しました。

御山には龍神が住み、斜面には地蔵菩薩、洞窟には聖観世音菩薩が祀られています。参加者の読経と錫杖の聲は御山にこだまし、神仏に然と届いたことでしょう。

当院の御山は優しく包み込むような気を発していますが、実際に登拝してみると、決して楽な行程ではありません。特にこの日は、激しい雨の翌日でしたので、厳しさも増していました。ですが、諸天善神に守られて全員が無事に下山し、院内の温泉で大地から湧き出る恵みに与ることができました。

行者会の様子

◆行者会の模様を動画でご覧いただけます。

 日本古来の山岳信仰に仏教や道教、陰陽道などがミックスして出来上がった日本独自の行道と云えます。発祥は飛鳥時代に遡り、開祖は大和の国、葛城山の役小角(えんのおづぬ)です。

 平安時代には、密教僧たちは盛んに山岳修行を行ない、修験者と密教僧の間で人材交流が行なわれました。鎌倉時代以降は、天台宗の本山派と真言宗醍醐派の当山派の二つに収束しつつ、日本全国に活動の場を広げていきました。

 ところが、明治から戦後までは公には禁じられてしまいます。明治時代に入り、王政復古を目指した政府により、日本は神道が主柱となります。神仏分離令の発布に伴い、各地で廃仏毀釈が盛んに行なわれました。

 追い打ちをかけるように、明治五年には太政官(だじょうかん)令により「修験道は今後一切、まかりならず」ということになります。これにより、修験者は宗旨替えか還俗ということになってしまいました。

 宗旨替えの道を選んだ者は、本山派は天台宗へ、当山派は真言宗へとその身を転じました。

 戦後になり、信教の自由が認められるようになり、各地で修験道が復活しました。当院の院主が修行時代を過ごした大峯山を抱える天台宗吉野派も「金峯山修験本宗」として独立し、数々の優れた修験者を輩出し、現在に至ります。

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